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ウフフの我が家 2015年

作成者: スウェーデンハウス|2025.07.07

スウェーデンハウスオーナーのコピーライターが綴る、ひとりごとのような本音エッセイ。今回は、糠漬けとお正月にまつわる物語をお届けします。

巣立つ日まで

昨年の夏休み前、小学校の個人面談でのこと。担任の先生が一枚のプリントを私に見せた。「楽しい夏休み」と題されたそのプリントの中ほどに、「夏休みに楽しみにしていること」という質問項目があり、うちの娘は大きな字で「家でのんびりする」とだけ回答していた。笑いをこらえるような顔で先生は「家でのんびりしたいらしいですよ」と念を押すように言う。言外に「他に何かないんですか」というニュアンスが感じられ、私も思わず苦笑した。

でもいいじゃないか、ベつに。あの子は家が好きなんですよ。特別何をするわけでもないけれど、家で過ごす時間が好きなんですよ。だめですか?きっと他の子どもたちは、旅行や帰省、海、山、プール、遊園地...夏ならではのアクティビティに触れ、チャレンジを宣言し、ワクワクするようなことを書いていたんだろう。家でのんびりなんて、疲れた大人のため息みたいに聞こえちゃうんだろうなあ。うちの小学校は家庭訪問もないから、先生はうちの居心地良さを知らないんだろう。

一方うちの娘も、相変わらずの超マイペース。他の子の回答を気にも留めず、自分の思ったままを書いたに違いない。見栄を張ったり、背伸びをしない姿は、子どもながらなかなか天晴だと私は思う。小学校も高学年になると、女の子たちはそれなりに生意気になり、親に反発しはじめる。家にいるより、放課後は友達と過ごす方が楽しい年齢になってくる。成長の一過程であり、とても自然なことだ。

そんな中、一年経った今でも「家が好き」と言う我が娘。少々幼いような気もするが...まあ、納得のいくまでいればいいさ、と見守っている。この子もいつか、巣立つのだろう。しかし、帰るべき巣が居心地の良いものでなければ、結果、小鳥たちはなかなか巣立とうとはしないのだという。高く、遠くへ飛び立つために、今、彼女はしっかりと翼を磨いている。今年も夏がやってくる。1歳の夏は今年だけ。まっすぐ、健やかに、大きくなっていくんだよ。

私の糠漬け

いつも美味しい自家製糠漬けをくださるご近所さんがいて、娘も夫も、いただくたびに奪い合うようにして食べている。生来ズボラな性格なので、面倒なことには手を出さない主義なのだが、そんな光景を目の当たりにするうちについに重い腰をあげることにした。糠漬けデビューである。

便利な世の中になったもので、何事もたいがいのノウハウはインターネットで入手できる。おそるおそるのぞいてみると、そこには「糠漬けは面倒」との噂を蹴散らすように、いろいろな糠漬けグッズが紹介されていた。朝晩混ぜ返さなくてもOKの糠漬けの素や、老舗漬物屋が予めブレンドしてくれた糠、ハンドルをくるっと回すと糠が撹拌される容器...なるほどこれなら誰だって気軽に糠漬けに挑戦できるじゃないか。素晴らしい!

──しかし、さんざん調べて迷った挙句、私が入手したのは無農薬米の生糠と、普通の琺瑯容器だけだった。「本当は」どうするのか──母や祖母たちはどうやってきたのか知りたかったし、「簡単」ではない時間を過ごすことで、その糠床は私の、特別なものになるような気がしたからだ。よく分からないところは実家の母に電話をした。例のご近所さんにも教えを乞うた。そしてとにもかくにも、私の糠床は産声をあげた。

若い頃には体力も時間もたくさんあったのに、何でも簡単に、効率よく、と考えがちだった。いつの頃からだろう(スウェーデンハウスに住むようになって拍車がかかっているように思うが)、時間をかけ、手をかけ、長く愛せるものを好むようになったのは。時間をかけることで美味しくなったり、美しくなったり、強くなったり...全てがそうなるわけではないけれど、こと時代を超えて伝えられていくもの、特に「衣食住」に関しては、「本物」にこだわりたい。ほどほどのものをほどほどに使い、不要になれば手放す...簡単に手に入れたものは簡単に去っていくのだと私は思う。胸をはって娘に手渡せるもの、伝えたいものは、きっとそこにはそんなに多く残らない。そんなことを考えながら、今日も愛しの糠床に、胡瓜と茄子をつっこんでいる。

「寒い」という状況が人一倍苦手なくせに、子どもの頃から十二月が嬉しい。クリスマスを祝って、冬休みになって、大晦日の後にはお正月がくる。みんなが笑っている季節。しかも次には春が待っている。

クリスマスの思い出の一つに、母の焼いてくれたケーキがある。その年、彼女はどこからか新しいレシピを入手してきたらしく、スポンジケーキの間にオレンジムースが挟んであるという、一手間かけた、凝ったケーキを作ってくれた。しかし、何かが上手くいかなかったようで、出来上がりに包丁を入れた途端、ムース部分がずるずると滑り落ち、ビジュアル的に残念なケーキになってしまった。母は「二度と作らない」と言っていたが、私は「お店で買ったケーキみたい!」と、感激して食べた。見た目は悪くても味には何の問題もなかったし、母の悪戦苦闘を横で見ていた私にとって、その美味しさはひとしおだった。

年末・年始の思い出もやはり台所だ。何品ものおせち料理を作りながら、年越し蕎麦の用意までしなければいけない母が、家族の輪に加わるのは、きまって紅白歌合戦も終わる頃だった。みんな揃ってTVが見たい私は、寒い廊下を走って居間と台所を行き来し、「ねえ、もうすぐ○○が歌うよ」と誘うついでに、つまみ食いをしては叱られた。十二月の記憶はいつだって家族と、家から始まる。祖父や祖母がいた冬、大雪が降った冬、台所が新しくなった冬、下宿から姉が帰ってきた冬…「家」は記憶を育み、思いを繋ぎ、自分を確かめる場所だった。

「お店で買ったみたい!」と喜んだケーキ。今は「お店なんかじゃ買えないケーキ」だったと分かる。新しい服を着てきちんと座り、お雑煮を前に、父がニコニコと新年の挨拶をする瞬間の澄んだ空気。三人姉妹のそれぞれが家族を持った今では「もう一度」というわけにもいかないが、確かな記憶は季節が巡る毎に蘇り、身体の深い部分をあたためる。今年の冬は少しゆっくりと、田舎に帰りたいと思っている。

 

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