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「森のしあわせ通信」左側走行だったスウェーデン

作成者: スウェーデンハウス|2022.09.20

左側走行だったスウェーデン

道路交通法においてスウェーデンは1967年まで日本と同様に車・バス・自転車はすべて道路の左側を走っていました。戦後1950年代から1960年代にかけて、国が豊かになるにつれ車を所有する人が多くなり、スウェーデンでは車の数が急激に増え、他国を車で行き来する人も増加しました。国産車のボルボは海外への輸出を念頭に置いていたため、スウェーデンが左側走行であるにも関わらず左ハンドルの車製造をしていました。さらにこの時代外国からの輸入車が国内を多く走っていたため、左側通行であるにも関わらずスウェーデンで乗られていた多くの乗用車は左ハンドルでした。左側走行の道を左側ハンドルが左折すると車線が見えづらく、視界も悪くなることから当時は事故が絶えませんでした。またスウェーデンはノルウェーやフィンランドなどと陸続きのため、国境付近での左側通行と右側通行の違いによる事故が多発していたそうです。

交通量の増加と事故の増加、利便性を考慮すると、他のヨーロッパの国々で起用されている交通システムを適応することが最良であると考えられ、1920年代以降長年に渡りスウェーデン議会で議論が続き、第二次世界大戦後はより活発に話し合いが進められていきました。
1955年に諮問国民投票が行われ、スウェーデンの人口の大多数が右側走行の導入に反対しましたが1963年に政府は右側走行導入を推し進めました。

車の交通量が最も少なく規制をかけやすい1967年9月3日の日曜日午前5時に一斉に変更することとなったのです。この決定から決行の日まで、国や地方自治体、警察、軍隊はTV、ラジオ、新聞などを通して様々なキャンペーンを張り、告知をし、実働部隊はシミュレーションを繰り返し、念入りな計画を持って当日に挑みました。ロゴやキャンペーングッズが作られたり、様々なポスターが貼られたり、何度もCMで告知が流されたり。“スヴェンソンさん右側を保て!” という意味の「Håll dej till höger, Svensson(ホル デイ ティル ホーゲル、スヴェンソン)」という音楽まで製作されたほどです。

Photo:Cecilia Larsson Lantz/ Imagebank. Sweden.se

今も語り継がれる歴史的な日

いよいよ右側走行への変更の日、1967年9月3日午前5時、左側走行から右側走行への移行を果たすこととなりました。午前1時から6時までは交通規制がかけられ、一切の車は走行できませんでした。当時スウェーデンに約36万個あった道路標識はこの短時間に一斉に交換されたそうです。時間のない中出来る限りの準備をし、当日までハードスケジュールをこなした人の中には、精神的な病に陥りそうになる人もいた程に過酷なプロジェクトだったと言います。

これは前代未聞の画期的な出来事として今でも語られる歴史的1日となり、スウェーデン語でHögertrafikomläggningen(ホーゲルトラフィークオムレーグニンゲン)と言われています。「その日」を意味するDagen(ダーゲン)と、右側通行を意味するHögertrafik(ホーゲルトラフィーク)の頭文字から、Dagen H(ダーゲン ホー)の相性で呼ばれることもあります。スウェーデンは1718年から1734年の間にも右側走行を導入した経緯があり、1967年のそれはスウェーデンにとって2度目となる右側走行の導入となりました。

多くの人がこのDagen H(ダーゲン ホー)による交通事故の増加を懸念していました。しかし歴史的1日から約半年後、交通事故は大幅に減少する結果となりました。これは右側走行への移行だけが理由ではなく、Dagen H(ダーゲン ホー)と同時に新しい交通ルールを導入し、田舎道の自由走行を廃止するなどしたことによるものです。また翌年の1968年にはスウェーデン政府による道路安全局が設立され、シートベルトやヘルメットの着用義務化や制限速度の引き下げを行いました。現在スウェーデンの交通事故数は世界トップを誇るまでに減少し、2015年度の調査では263人とされています。将来的には交通事故による死亡者を0人にする目標が掲げられています。

Photo:Stockholms stad/Stockholmskällan

Photo:Stockholms stad/Stockholmskällan

堀 紋⼦:北欧ジャーナリスト&コーディネーター

10代でスウェーデンに渡り、ガラスのテクニックとデザインを習得後、ストックホルムで活躍するガラス作家に師事。帰国後、創作活動の傍ら北欧の⽂化イベントを企画開催。その後北欧情報誌の現地コーディネートやプランニングに携わる。現在は独⽴し東京とパリにオフィスを持ちながら、ヨーロッパの暮らしや料理の提案、執筆、現地コーディネート、北欧企業のビジネスサポート、PRを⼿がけるなど活動の幅は多岐にわたる。

 

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